第16話 宝石の涙
「翡翠さん! 待ってください!」

 はあはあはあ。息が苦しい。リースは翡翠の背中を必死で追いかける。前に、坂道を登ったときにも同じことをリースは思った。翡翠さんは足が早い、って。

「翡翠さ……」

 ごつり、と靴先に何か硬いものが当たった。ぐらり、と視界が揺れる。あ、やばい。とリースが思った瞬間、べしゃりと身体が地面にぶつかっていた。

「いたたたた……」

 石にぶつかって転けたようだ。とリースが理解すると同時に、膝に鈍い痛みを感じる。リースは両手を地面について、力を込め、起き上がろうとした。顔を上げたリースに、ふ、と影が落ちる。

「翡翠さん」

「……大丈夫か」

 翡翠が腰を屈め、右手をリースに差し出していた。転けたところ、見られちゃったかな。恥ずかしい。リースは罰が悪そうに目を伏せ、そろりと翡翠の手を取った。

「ありがとうございます。助かりました」

「問題ない」

 リースは翡翠から差し出された手に自分の手を乗せ、立ち上がった。そして、その手をぎゅっ、と力を込めて握る。

「……どうした?」

 リースに握られた手を、翡翠は不思議そうに見ていた。

「だって。こうして捕まえておかないと、翡翠さん。またどこかに行っちゃうでしょ」

 リースは翡翠の手を握った手に更に力を込め、翡翠の手を両手で包み込んだ。

「大丈夫だ。もう私は逃げない」

「……本当ですか?」

「ああ、本当だ」

「よかった……」

 翡翠の言葉に、リースの肩の力がふ、と抜ける。

「あの、翡翠さん。戻って来て下さい。私達には翡翠さんの力が必要なんです」

「……私にはお前達の役に立てる力がない」

 翡翠の翡翠色の瞳が伏せられ、まつ毛の影が落ちる。

「私は師匠の血を分け与えられ、作られた存在だ。お前達、救世主(メシア)の役に立てるように、と。しかし、どんなに私が術を極めたところで、どこまでも私は“人形”でしかない。……決して、人にはなれない。お前達の役に立てるように作られた存在だというのに、私の術は全く通用しなかった。あまつさえ、“人形”だと言われた」

 リースの両手で包み込まれている翡翠の手が、ぎゅっと力を込め、握られた。翡翠の瞳は伏せられ、どんな色を映しているのかリースには伺うことが出来なかったが、心なしか、潤んでいるように見えた。

「私はお前達の護衛には相応しくない。……師匠の期待に応えることも、出来ない」

 ぽろり、と翡翠の目から涙が落ちる。木漏れ日の光が当たりきらきらと輝くそれは、リースには宝石のように見えた。なんて、

(綺麗な涙を流す人なんだろう)

「……こんなにも綺麗な涙を流す人、初めて見ました」

「……涙?」

 翡翠はリースの手で包まれていない方の手で目尻を触る。翡翠の手が涙に触れた瞬間、翡翠の目が驚いたように丸くなった。

「……私は泣いているのか」

「はい、泣いています」

「そうか……」

 泣いているというのに、翡翠の表情が緩む。嬉しそうだ。

「まるで、人みたいだな」

「はい! 翡翠さんはまぎれもなく、人そのものです」

「お前には、私が人に見えるか?」

「それはもう!」

 誰かの役に立ちたい。誰かの期待に応えたい。それは、リースも思ったことがある願いだ。

「“誰かの役に立ちたい”。“誰かの期待に応えたい”。そう思い、悩み、涙を流す、なんて。……なんて人間らしいことなんだと思います」

「……そうか」

 “人間らしい”。そう言葉にしたリースに、翡翠は嬉しそうに目を細めた。

「……私は、師匠の期待に応えることが出来るのだろうか。私は、……生まれてきて良かったのだろうか」

「……生まれてきちゃいけない人なんて、いないと思います」

 リースはどう言えば翡翠に自分の想いが伝わるのか。翡翠を勇気づけることができるのか。思考を巡らせ、ゆっくりと口を開いた。

「出雲さんが翡翠さんのことをどう思っているかは分かりませんが……私は、翡翠さんがここに居てくれて、生まれてきてくれて、良かったです。嬉しいです」

 花が咲き誇るように、ふわり、と翡翠が笑う。それはリースを魅了するには十分の威力を持っていて、

(……翡翠さんって、こんな風に笑う人だったんだ……!)

「……えと、あの。……帰りましょう! ナギサちゃんと出雲さんが待ってます」

 赤くなった顔を隠すように、見られないように、リースはくるりと翡翠に背を向けた。その拍子に包み込んでいた、翡翠の手をぱっ、と離してしまった。

「……そうだな」

 離された手を、名残惜しそうに翡翠が見つめていたことを、リースは知らない。