第9話 歩調を合わせて
 さく、さく、さく。
 靴が地面を踏む度に、砂利が押さえつけられる音がする。
それと同時に、息を吸って息を吐く
 はあはあと呼吸をする音は段々と大きくなり、胸が苦しくなる。そんなリースの様子はお構い無しに、前を歩く翡翠はさくさくと軽い足取りで、慣れた様子で山の坂道を歩いている。
そもそもどうして私達は山の坂道を登っているのだっけ。リースは思い出す。
 事の発端はこうだ。出雲の屋敷の一室でナギサ達とくつろいでいたところ、ガラリと襖が開き、現れた翡翠がこう言ったのだ。「リース、出かけるぞ」と。

 それから言われるがまま、わけがわからないまま、リースは翡翠の後を追いかけてきた。行先も分からない。坂道にも関わらず、翡翠の足取りは早い。せっかく周りに綺麗な桜が咲いているのに、見ないでさっさと歩くなんて、もったいない。リースは心の中で独りごちた。
ぴんと真っ直ぐに張った翡翠の背中が、どんどん遠くなっていく。リースは精神的にも、体力的にも限界を迎えていた。翡翠さんに付いていけない。どんどん遠くなる翡翠の背中を胸の苦しさが増すぼんやりとした意識の中で見ながら、段々と胸の奥からふつふつと怒りのような感情が沸いてくるのを感じた。
どうして! 行先もわからず! 周りの桜も見ないで! 慣れない坂道を! 翡翠さんはさっさと私を置いて歩いていくの!
 ブチッと、リースの頭の中で紐のようなものが切れる音がした。

「ちょっと、翡翠さん!」

 リースは残りの力を振り絞って、大きな声をぴんと張り上げた。リースの声に反応した翡翠が、ぴたりと歩みを止め、首を後ろに回してリースを見る。

「そんなに早く歩いたら、私、付いていけません!」

「翡翠さんと違って私は山道は歩き慣れてないんです。 そんなに早く歩けません!」

 はあはあ、とリースは肩で息を吸って吐く。胸の中にあった言いたいことを全て吐き出したためか、ふつふつと煮えた怒りは段々と小さくなって消え、リースは落ち着きを取り戻した。

「それに、せっかくこんなに周りに綺麗な桜が咲いてるんです。ゆっくり見ながら歩きませんか?」

「…桜が見たいのか?」

「そうです!」

「翡翠さんがどこかに連れて行ってくれようとしているのは分かります。けど、折角だから、前で先に歩かれるより、横に並んでお喋りしながら歩きたいというか、なんというか……」

「そうか。すまなかった」

「え、」

 すっ、と流れるような動作で、翡翠はリースの横に移動した。あっさりリースの言う通りにした、予想外の翡翠の行動にぽかん、とリースは目を丸くする。

「あ、ありがとうございます」

「それで、そのお喋りというのは、どんなことを話せばよいのか?」

「え! えーっと、「桜が綺麗ですね」とか?」

「私はなんと言えばいい」

「ええと、「そうだな」とかですかね。というか! 返事は翡翠さんで考えてください」

 なんだこの会話は。リースは混乱した。そもそも、会話の返事は自分で考え思ったことを言うものではないのか。

「というか、別に桜が綺麗だと思わなかったら、同意しなくていいです。返事は翡翠さんが思ったことを言って下さい」

「そうか。分かった」

 翡翠はリースの言葉にこくり、と素直に頷いた。思った以上にあっさりと言うことを聞いてくれた翡翠に、リースは驚きどうしていいか分からなくなる。
 先程とは違って、翡翠はリースの横に並び、リースの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれている。

(あれ?この人、自分勝手な人だと思ってたけど、いい人なのかもしれない…)

「この周りの桜は、」

「え?」

「まだ咲き始めで、眺めて見るなら満開の桜の方がよいと思った」

 どういう意味ですか? とリースは翡翠に聞き返そうとした。しかし、目の前に広がる景色に目を奪われ、なにも言葉が出なかった。

「すごい…!」

 気づけば坂道ではなく、平たい地に足を着けていた。辿り着いた地には、先程の桜とは比べ物にならない程、たくさんの満開の桜が一面に咲き誇っていた。
 緩やかな風に乗って桜の花びらがひらりと舞う。リースは感動して、魅入るように桜に釘付けになった。そして、はた、と考える。

(もしかして、これを私に見せたかったから? 私が桜が好きって言ったから?)

 疑問には思ったが、それは声に出来なかった。ちらりと盗み見た翡翠の顔は相変わらず無表情だったが、どこか満足気に見えるのはリースの気のせいだろうか。

「翡翠さん、ありがとうございます」

「ああ」

 やっぱりそうだ、とリースは思う。翡翠は自分にこの景色を見せたかったに違いない、と確信した。でもどうして? 理由は分からないが、リースはこの素晴らしい景色を堪能することに専念することにした。