第24話 俺という存在
『クルセイド! クルセイドという町に行きなさい!』

 ごうごうと燃える炎の中。それが俺が聞いた母様の最後の言葉だった。

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 ばしん!
 右頬に激しい痛みを感じる。右頬を叩かれたのだ。父様に。そう気づいた時には、俺の身体は畳の上に転がっていた。

「何度言えば分かる、紅蓮(ぐれん)」

「……申し訳ございません、父様」

 俺は両手の手のひらを畳の上に置き、ゆっくりと身体を起こす。それから、ゆっくりと父様と目線を合わせた。

「火だ。火をおこすのだ。分かるな?」

「……はい」

 俺は父様の言葉にこくりと、首を上下に動かして頷いた。

「全く。何のためにお前に“神降ろし”をしたのか分からないな」

「……申し訳ございません」

 父様に「火をおこせ」と言われてから、いくつの時が経っただろうか。もう半年は経ったのではないだろうか。何度火をおこそうと願っても、集中しても、その想いが叶うことは無かった。俺はあまりの自分の不甲斐なさに、頭をどんどん下に下げていった。

「お前の身体には、破壊者(ネメシス)様や光降神様が降りてきて下さっているのかもしれないのだぞ」

 俺は父様に“神降ろし”をして頂いたときの状況を思い出す。父様は俺に「お前には破壊者(ネメシス)様や光降神様が降りてきて下さっている」と言うが、俺の身体に特に変化は無く、本当になにか別の誰かが乗り移ったという感覚は全くなかった。本当に俺の身体に別の誰かが降りてきているのだろうか? という疑問が、日を増す毎に積み重なっていく。

「火は、破壊者(ネメシス)様や光降神様を象徴し、最も得意とする術だ。“神降ろし”をしたお前に火がおこせぬはずがない」

 父様はそう断言する。しかし、俺にはそれを成功させる自信が無かった。

「……もう一度やってみろ」

「……はい」

 今度火をおこすことに失敗したら、また頬を叩かれるかもしれない。いや、後のことを考えるのは止めよう。今は火をおこすことだけ考えるんだ、と俺は自分に言い聞かせた。
 俺は目の前にある、木のくずを囲むように、両手を添えた。緊張感を抑えようと、息をすっと吸う。集中。集中。集中するんだ。目の前の木のくずに火をおこすことだけに集中して、ぴん、と神経を張った。
 しかしーーいつまで待っても、いつまで集中しても、木のくずが燃え上がることはなかった。
 ばしん! 右頬に激しい痛みを感じる。また父様に頬を叩かれたのだ。そう気づいた時には、俺の身体はまた畳の上に転がっていた。

「火をおこせと言っている! 分からぬのか!」

「ぐっ!」

 背中に激しい痛みを感じる。畳の上に転がった俺の身体を、父様が足で蹴っているのだ。

「何度言えば分かる! この出来損ないが!」

 何度も、何度も、父様が俺の背中を蹴る。俺は俺の身体を守ろうと、身体を丸めて衝撃に耐えた。

「おやめ下さいませ! 庵(いおり)様!」

「……皐月(さつき)」

「母様、」

 俺の後ろで様子を見守っていた、母様が俺と父様の間に入ってきた。両手を広げ、片膝を立て、畳の上に転がった俺を守るように。

「紅蓮(ぐれん)には私からよく言って聞かせますゆえ、どうか……!」

「……」

 母様が切なげな声で父様に許しを願う。父様は訝しげな眼差しで母様を見つめた後、何も言わずに部屋を立ち去ってしまった。 父様は和人(イニシオ)の術師として、正式な後継者、誇り高き純血の和人(イニシオ)だ。俺は幼い頃から和人(イニシオ)の術師として相応しい振る舞い、言動を徹底的に父様に教え込まれた。時にそれが、暴力を伴うものだとしても、俺は必死に耐えてきた。父様に認めてもらうように、褒めていただけるように、と。
 けれど、時には俺にも耐え難く、父様に反抗したくなる時があった。「どうして俺がこんな目に」と、そう思ってしまうこともあった。それを表に出さなかったのは、母様が居てくれたから。父様に暴力を振るわれても、危ない目にあっても、いつも母様が助けてくれる。庇ってくれる。そんな母様の存在が、俺の心の支えだった。
 「出来損ない」父様に言われた言葉が頭の中で反響する。父様の言う通りだ。俺は、器人として初歩的な火をおこすことも出来ない。父様の期待に応えることもできない。“出来損ない”だ。

「父様は、お前に期待しているのですよ」

「……そうでしょうか」

 母様は「父様は俺に期待している」と言うが、俺にはそうは思えなかった。父様は俺に失望しかけている、いや、失望しているのではないかと思う。その苛立ちを、俺に向けているのではないか、と。そして、そのせいで、毎回母様を危険な目にーー不幸にさせているのではないか、と。

「そうです。立派な器人として育てたいという気持ちが、時には行き過ぎてしまうのです」

 「だから、大丈夫」と母様が優しい音色で言葉を紡ぐ。俺を安心させるように。俺から、不安を取り除くように。

「焦らなくてよいのです。父様もああ言っていますが、いつかきっと、お前を認めて下さいましょう」

「……はい、母様」

 母様の手が俺の頭を撫でる。優しくて、暖かい。俺の大好きな母様の手だ。この時がずっと続けばいいのに。そう思う。俺は母様と共に過ごす時が、何よりも大切だった。

 そしてあの日、俺はいつもと同じように父様に呼ばれ、火をおこそうとした。しかし、何度やっても火をおこせない俺に、父様の苛立ちは増すばかり。父様の苛立ちがピークに達したその時、それが俺へと向けられた。

「何度言えば分かる! お前には“神降ろし”をしたのだぞ!」

「ぐっ!」

「何故! 何故! こんな簡単なこともできぬのだ!」

「がはっ!」

 父様が俺の背中を蹴る。何度も、何度も。俺は痛みを我慢しようと試みたが、痛みのあまり、苦しいうめき声が口から溢れ出た。

「破壊者(ネメシス)様や光降神様が復活すれば、あの忌々しい洋人(フィニス)どもを滅ぼせる!」

「ぐっ……!」

 父様の背中を蹴る力が、どんどん強くなる。それどころか、背中以外の場所、足や腹まで蹴られるようになった。身体の痛みはどんどん強くなっていく。

「この世界には、和人(イニシオ)だけいれはいいのだ!」

「……っ!」

 もう痛みに耐えられそうにないーー。そう思ったその時、父様が俺の背中を蹴ることを止め、俺の身体に馬乗りになる。頬を殴られる! それに気付いた俺は、衝撃に耐えるために歯を食いしばった。

「庵(いおり)様! おやめ下さい!」

 ふすまががらり、と開き、母様が走って部屋に入ってきた。そして、ぱしりと父様の手首を掴み、頬を殴ることを止めさせようとする。

「これ以上はーー紅蓮(ぐれん)が死んでしまいます!」

 必死に父様を止めようとする母様を、ぎろりと父様が睨む。邪魔をすることを許さない。怖くて、危険な色が父様の瞳に宿っていた。

「邪魔をするな!」

「きゃあ!」

 父様がどん、と強い力で母様を突き飛ばす。母様の身体は畳の上に転がった。

「皐月(さつき)! “これ”が純血の和人(イニシオ)で術師である私の息子か!?」

「うっ!」

 畳の上に転がった母様の背中に、父様が容赦なく蹴りを入れる。背中を蹴られた母様は、痛みで苦痛の声を漏らした。

「おやめ下さい! ぐっ!」 

 また父様が母様の背中に蹴りを入れる。さっきまで俺がやられていたみたいに。俺の代わりに母様が父様に暴力を振るわれてしまう! 焦った俺は、父様の背中に縋りついた。

「父様! おやめ下さい! 叱るなら俺を……!」

「黙れ!」

 母様の背中を蹴ることを止めずに、父様はぎろりと鋭い眼差しで俺を貫いた。父様が母様の背中を蹴る力はどんどん強くなっていく。やめろ。やめてくれ。

「皐月(さつき)! 本当に、“これ”がこの私の息子か怪しいものだ!」

「う……!」

 やめろ。やめろ。やめろやめろ! それ以上、母様を痛めつけるな!
 俺の頭の中で、ぶつりと糸が切れた音がした。

 火だ。火が燃えている。
 気づけば、火がごうごうと燃えていた。あんなに待ち望んだ火が、俺の周りを囲っている。
 一体何が起きたのか。俺が状況を把握しようと考え始めたその時ーー。

「うわあ!」

 火だるまになった人が、俺の足元で転がっていた。父様だ。そう直感が告げている。俺がやってしまったのか? きっと、そうだ。俺が父様を火だるまにしてしまったんだ。

「ーーれん?」

 どうしよう。どうすれば。俺は混乱した。どうすれば父様を元に戻せる? いや、元に戻すことなんて無理だ。どうすれば父様をーー。

「紅蓮(ぐれん)!」

 誰かにがしりと両肩を掴まれた。俺ははっ、と我に返る。母様だ。そうだ、母様はーー無事なのか。

「逃げるのです! もうこの里は火が覆っています。お前だけでも逃げるのです!」

「逃げるってーーどこに!? 母様は!?」

「私のことはいいからーーさあ、行きなさい!」

 どん、と母様に背中を押される。俺はよろめきながらも、前に数歩進んだ。
 俺はとんでもないことをしてしまったんだ。そう気付く。

「クルセイド! クルセイドという町に行きなさい!」

「……でも、」

 俺は言葉を言いかけたが、どん、とまた母様に背中を押され、部屋の外へ追い出された。そして、ぴしゃりとふすまを閉じられた。
 それから俺は訳が分からないまま、混乱したまま、無我夢中で走った。どんなに着物がボロボロになろうと、どんなに髪がボサボサになろうと、どんなに足の裏から血が出ようとも。
 そして出会ったんだ。あいつに。母様によく似たーー俺の光。

「クルセイド、って町か? ここは?」

「そうよ。ここはクルセイド」